《本来の姿》
世の中に起きていることを観察すると、人間が本来の姿になって行っている流れが分かって面白い。
例えばこんな流れがある。
社会の複雑化に限界が生じ、よりシンプルになる。
不覚社会に暮らす人々の中には、パパッと変わるものを好んで課題でも娯楽でも、早送りして通り過ぎようとする人も居る。
そうした人々にとっては、あまりにゆっくりとした歩みなのでシンプル化は気づかれ難い。
だがじわじわと進んでいる。
世間では人手が足りないこともあり、各人が最大限に能力を発揮することが求められる場が増えた。
仕組みを複雑にしたままでは維持できない位に逼迫した状況は、シンプル化を後押ししている。
AIの登場もシンプル化に一役買っている。
「人の手で作った芸術作品が模倣されたりして、ややこしいことが増えていますが」
「不完全さを残しているので、扱いが大変です。どこがシンプルなのですか」
そうした見方をする時、この流れが一体何をシンプル化しているか理解していない。
人が作ったのと見紛う作品が生まれ続けたら。
人がしたのと遜色ない仕事が行われ続けたら。
これまでブイブイ言わせて来た「人間様のお通りだい!」の勢いはどうなるだろうか。
「へっへへ、AIさんでも、あっしがやるくらいのことは出来まさぁね」
と、多くの人が認めざるを得ない時。
暫く感傷に浸ったり虚無を訴えたりと憐憫ムーブをかます時間があるかも知れないが、それも終わる。
「あれっ、個性って何かな」
「個って、何かな」
と、ようやく意識がそちらに向くのだ。
人は人の作ったものが好きなので、芸術家や職人など各方面のプロが居なくなったりはしない。
本当にその道に向いている者は残るし、新しく出ても来るだろう。
だが単に、そうした職業に就いていたい、○○と呼ばれたいと言う程度であれば、模倣の波に飲み込まれて行く。
エゴが作った後付けの飾りが、洗い流されて剥がれて行く。
ご覧の通り、これはシンプル化である。
飾り取り、見える姿。
(2026/1/22)
