《我の味》
エゴは自らが、つまりエゴが目覚めた状態になれると思っているのかも知れない。
こう気づいたことは、大きな発見だった。
何故なら、目を覚ますことを求める人々は、エゴをその敵と見なしたりするからだ。
エゴは意識が目覚めに向かうのを遮り、不覚に押しとどめるもの。
そんな風にイメージしてエゴと戦い、善行を積んだり修行するなどして“解脱”しようとする。
解いて抜けなければならないものと見なしているエゴが、何故目覚めた状態になれると思っているのか。
それは、エゴに目覚める意志があるからではない。
人によっては、目覚めたとされる人が受けている扱いが、エゴにとって魅力的だからである。
覚者を名乗る人々は、そうなりたい人々の間で信奉や崇敬の対象になることがある。
悩みがないことで、悩みある人々から
憂いがないことで、憂いある人々から
注目されることで、注目されたい人々から
羨まれることもある。
あなたのお陰で人生が変わった、道が開けたと喜ばれることもある。
羨まれたり、尊敬されたり、喜ばれたり。
そうして相手の人生に影響を及ぼす。
そんな姿は、エゴにとってたまらなく魅力的に映っても不思議ない。
こうした“旨味”がある完成図をイメージして、そこに近づこうとするのも、またエゴなのだ。
何とややこしく、矛盾して、賑やかなことだろうか。
これぞエゴ、と拍手をしたい気分になった。
静かに観察をする時、それはとても興味深く、味わい深い。
人間臭さも、味の一つ。
なかなかの珍味と言えるかも知れない。