《感謝と巡り》
不覚社会に暮らす人々の振る舞いについて、時折とても不思議に感じることがある。
例えば、こんな姿を目にしたとする。
訪れた状況に苦しんでいる人が、感謝の力でそこを脱しようとする。
これは本当に、奇妙だ。
確かに感謝は行動や実現をスムーズにするし、そもそも生きることの基本ではある。
不思議なのはそうした人々のしている感謝が、実際の感謝からは程遠いことだ。
手を合わせて、喜んで見せる。
そうしていながら、一刻も早くこの状況が好転することをひたすら待ち望んでいる。
嫌いな客に対して、内心ではとっととお引き取り頂きたいと思いながら作る笑顔って、感謝だろうか。
現在起きていることを
「どこかの誰かから押しつけられたこと」
「自分の至らなさで招いていること」
と、見なして邪魔にすると、そこから学べないし、消化も昇華も進まない。
上の括弧で括られた部分は、「こと」を「不幸」に置き換えられる。
「どこかの誰かから押しつけられた不幸」
「自分の至らなさで招いている不幸」
起きていることを不幸呼ばわりして、そこにばかり注目していると、力が注がれることで、当たり前にそれは繰り返される。
虚空は幸も不幸も、善も悪も定めない。
全てを天意からの愛で観察している。
天意からの愛で観る時、見たいところだけを見るやり方ではなく、真っ直ぐ包み隠さず向き合うことが叶う。
すると巡り合ったものがどんな機会として表れているか、自然に分かって来る。
分かると同時に「虚空が観察する大きな流れの中で、この端末と言う自らに巡って来たこと」を味わい、楽しみながら消化し昇華する力が湧いて来るのだ。