《想の外》
誰が為の予想かと、前回記事の最後に書かせて頂いた。
申し上げるまでもなく、それは分割意識の為である。
分割意識が、癒されて、慰められ、快感を得て、やる気を出す為。
しかし、覚は癒やしとも、慰めとも、快感とも、発奮とも、直接関係がない。
あらゆるものは虚空から生じているので、それらも全体の一部ではあるが、「癒やし→覚」等と矢印で繋げることは出来ない。
「あれっ、物理次元へ何しに来てたんだったっけ……あっ、そうだ!」
と、原初の記憶が感覚として蘇る時。
傷を抱えて誰かや何かにそれを癒やさせようとすることは、全く必要ないと自然に分かる。
傷も又、作ったものの一つであり、何もかも虚空と言う自らの自由意志で始めたことだと、腑に落ちる。
水も魚も一体。
覚めぬ人々の中には、それを聞いて「我こそ虚空、他は幻影……ならこの世は全部私の思い通りに出来るはず!」と、頓珍漢な思い込みに走ったりする人も居る。
覚めていないからこその迷走で、ある意味で器用とも言える。
虚空は万物を支配している訳ではない。
支配も隷属も関係がない。
誰かや何かより優位に立ったと感じて、快感に興奮することもない。
人型生命体にしても、自分に打ち勝つとか言っている人も「私は私より優れているぞ、わーい!」等と、得意満面になったりするだろうか。
虚空は優れることとも、劣ることとも直接関係がない。
逆に言えば虚空のままでは優れることも劣ることも出来ないから、わざわざ目に見える、個別に分かれた存在が活動する物理次元を生んでみたのだ。
自己中心ゲームにのめり込むことから離れ、全体の栄えを楽しむことに意識が向かうと、覚めていなくともモノコトの進みはスムーズになる。
その流れに乗りながら、細やかに感じ続け気づき続けて行く時、世界との一体感はより確かなものに変化する。
そこには自分好みに状況を運ぼうとする目論見も、この現状は気に入らないと言う偏見もない。
天と地の間で真っ直ぐに立ち、全身で“観る”ことは、それそのものが歓びである。
想の外に真あり。
(2025/10/21)