《山と今》
本日は山の日。
前回記事の終わりに「面白を楽しむ基本は?」と書かせて頂いた。
それは、分割意識が御神体と共に集中して今に在ること。
今への集中を力んで行おうとする人も居るが、そうすると力を入れることばかりに気が向かい、傾く。
軽い余裕と共に、どの方向へも柔軟に動けるようにしておくことが自然な集中を叶える。
人類が覚めぬまま行って来た様々な体験の中には、極限状態に追い詰めて集中力を出すと言う、自然な流れとは離れたものもあった。
ご承知の通り、それはそれで虚空のやってみたかったこと。
苦行を通してしか知り得ないものもあった。
只もう、それらは終えてしまっている。
グーっと溜めて、ドカーンと出る。
こんな感じで歯を食い縛って耐えに耐えた結果、すんごいビッグパワーが手に入るみたいな劇的展開に不覚の人々は興奮する。
過去に憶えた快感を追って古いガムを噛むような未練がましい動きを続けても、変てこなやり方は既に全体一つの流れから後押しのない動き。
なのでどれだけ噛もうと、味も匂いも日に日に薄くなるばかり。
変容の時代においては、能力や機を活かす時に、分割意識だけの都合で御神体に無理を強いないことは重要となる。
山に登る時、人は上を目指す。
山頂まで行かないとしても、向きとして上は目指す。
山の麓から出発して下ることは、地下に向かって穴が空いてるのでもない限り出来ない。
それはもう、“登山”ではないだろう。
上を目指しちゃいかんと言う訳ではなく、方向性は決めつつどのルートにも向かえるよう柔軟であることが必要。
「どのルートにも」なので気温や天候によって、上がっている途中でも引き返して下ることが必要なら勿論そうする。
今の今、山と向き合うことで磨かれているのは、努力や根性ではなく柔軟性。
深海の熱が噴出する場所、つまり火と水が交わる場所で生まれたいのちから始まって、様々な形に進化して来た生物の歴史。
それは柔軟性の歴史であり、努力や根性の歴史ではない。
呼吸して点滅する度にいのちは毎回、最大限輝いている。
その最大到達もまた“山”の状態と言える。
実は毎瞬、山に達しているのがいのちが行う「生きる」と言う表現である。
上るも下るも全の内。
(2025/8/11)