《使われる病》
爽やかな陽気の週末。
生きていることを楽しみながら、「そう言えば何でだろう?」と、ふと不思議に感じたのが
五月病
についてである。
勿論、必要に応じて病も一つの味わい深い体験になったりするだろうし、病んじゃいかんと言う訳では別にない。
それにしたって、大勢の人がこの言葉を結構積極的に使っているのは、どうしてなのだろう。
様々な節目となる行事のある4月。
梅雨が訪れる6月。
両者の間にある、どちらかと言えば過ごし易くなりそうなこの月に、現れる「病」とは何だろう。
調べてみると新しい環境に適応出来ていないことが明らかになるタイミングが、この時期に当たることが多いからだと確認出来た。
緊張状態で、暫くは気づかずにいたものが「合わないかも」と分かる。
それを人が病と見なすのは何故だろう。
適応しなくちゃならないと決めているから、それに合わない状態を「病」と呼べるのか。
誰の側にも寄らずに観察していると、訪れている状態はシンプルに「転機」である。
良くも悪くもない。
一カ月でその合わなさに気づいたことを「やったね!」と祝っても、別に構わないのだ。
合わないのが時間配分なのか。
それとも人なのか。
活動内容なのか。
はたまたそれらのどれでもない要素なのか。
丁寧に観察してみることは必要。
同時に、観察している姿勢が中立かを、観察することも必要となる。
「見たいものだけ見たいから、見たくないものが現れるのが嫌だ」
そうした傾きのある姿勢で行っていると、環境をどう変えたとして、見たくないものは姿形を変えて再び「こんにちは!」と登場する。
人々が病と言う表現を使うのは何故か、分かっていることが幾つかある。
それについては次回記事にて、書かせて頂く。
欠の為、使われる病。
(2026/5/18)
