《一なる歩み》
やわらかな全体感覚の浸透を経て、ペースからマイの枠が外れた時。
起こるのは、「何でもなかった」と言う気づき。
誰のペースも、何程のものでもない。
王様だろうと為政者だろうと己だろうと同じことである。
周囲のマイペースについても、どれにせよ何でもないと分かると、
咎めるでもなく、
引きずられるでもなく、
それはそれであるだけと、認められるようになる。
否定でも肯定でもない中立な認定なので、何にも縛られない。
同時に何かを縛ることも勿論出来ない。
ほんの僅かだろうと相手を縛りたくなる欲が残っているなら、そこにはマイの枠も残っている。
枠から自由になると全体一つの流れの中で今の今、“自ら”と感じるこの端末はこう言う役をするのだなと、自然に分かって来る。
全体一つの流れは、個の都合に合わせて動いたりしない。
覚めぬままあの手この手で我田引水を目論んでも、流れに合っていなければさっぱり水は巡って来ない。
先読みしてそこに我が田を動かし待ち構えても、流れが大き過ぎて飲み込まれることになる。
全体一つの流れにとって、我が田は余りに小さ過ぎるからである。
今の今はこの役と分かる時、進むペースは自然と御神体に合ったものになる。
早くもなく、遅くもなく。
早いも遅いも何かとの比較で生まれる感覚なので、比較がなければ出て来ようがない。
何とも比べない、只いのちが点滅する輝き。
それがマイを超えた全体一つのペースである。